1629年にアッバースが亡くなった後、無能な君主、とくに政治への関心をもたない君主が続いたことは、君主権力が絶対的な専制国家となっていたサファヴィー朝の活力を急速に失わせた。1638年には、反撃に出たオスマン帝国によってイラクを失い、17世紀を通じて、サファヴィー朝は次第に衰退していった。
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18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでアフガン人(パシュトゥーン人)のカルザイ部族に属するミール・ヴァイスが1709年に起こした反乱は、カンダハールにアフガン政権を自立させるに至った。
1719年、ミール・ヴァイスの子マフムードはイラン本土への進軍を開始しケルマーンを攻略した。1722年、アフガン軍がイスファハーンに迫るに至ってサファヴィー朝の君主フサインはようやく討伐軍を派遣したが、3月8日、サファヴィー朝軍は数において勝るにもかかわらずアフガン軍に惨敗、壊滅した。マフムードはイスファハーンを包囲し、同年10月21日、フサインは退位し、マフムードに降伏した。都イスファハーンを失ったサファヴィー朝はこれにより事実上滅亡する。サファヴィー朝の崩壊をみてオスマン帝国とロシア帝国がイランへの侵攻を開始し、サファヴィー朝領の分割は時間の問題であった。特にロシアは南下政策の一環としてこれ以降もイランに干渉を繰り返し、イランの混乱に拍車をかけることになった。
同年11月10日、フサインの子タフマースブ(2世)が旧都カズヴィーンで即位し、アフガン人への抵抗を開始した。タフマースブ2世は諸勢力の攻勢の前に逃亡を続けるが、やがてホーラサーンにいたクズルバシュのアフシャール部族を率いるナーディルクリー・ベグがタフマースブを庇護し、その摂政となる。ナーディルはアフガン人やオスマンを破り、サファヴィー朝領の大半の回復に成功、自ら絶大な権威を確立した。1736年、ナーディルはタフマースブ2世の子、アッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーを称してアフシャール朝を開く。これにより、サファヴィー朝は名実ともに滅亡した。