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2009年03月 アーカイブ

2009年03月08日

パイナップル

パイナップル(学名:Ananas comosus 英:pineapple、中:鳳梨、菠蘿)は、熱帯アメリカ原産のパイナップル科の多年草。単にパインと略して呼ばれることもある。

名前の由来は、果実の形が松かさに、味がリンゴに似ているのでパイン(松)+アップル(リンゴ)という説のほか、パインは松かさを意味するが、アップルはリンゴではなく単に果物という意(西欧の言語では、リンゴを果物の代名詞とする造語例が多数ある)であるという説がある。

葉は地下茎から叢生して剣状で硬く、ふちにとげのある品種とないものがある。増殖させるときの苗は葉の付け根の腋芽が発達した吸芽を用いる。

苗を植えて12-18カ月すると株の中心部から花穂が現れる。60cmから長いものでは100cmに至る花軸が伸び、先端部分に円筒形の花序が付き、約150個の花が咲く。花序にらせん状に密生する花はがく(外花被)、花びら(内花被)とも3枚で、単子葉植物の典型的な姿である。花びらは肉質であり、色は白を基調とし、先端部分が薄紫色を帯びる。開花後、受粉の有無によらず、約6カ月で結実する。結実後、子房に由来する真の果実と個々の花の基部にある花托、さらに花序の軸までが融合して肥大化し、いわゆる「パイナップル」となる。花序の先端の成長点は開花後も成長を続けて葉をつけた冠芽になり、これを挿し木しても繁殖できるが、吸芽を用いるよりも開花までの時間がかかるため、経済栽培における繁殖用には用いられていない。
パイナップルは多年草であり、実を収穫後、根茎から再び芽を出し、これが成長すると先端部に結実する。しかしながら、収穫ごとに実が小さくなっていくため、株を3年以上用いることは少ない。パイナップルの果実といわれる食用部分は伸長した花序の軸の周りに排列した小果実の付け根の部分が軸もろとも融合肥大し、多量の汁を含むようになったもので、真の果実は表面へ螺旋状に並んだ、硬化して食べられない疣状の部分から果肉の表層までの部分である。多くの市販品を生産している農園では遺伝的に同一個体のクローンである同一品種ばかりを植えるので、自家不和合性によって受精が、ほとんど起こらず、果実内に種子ができていない。しかし、市販品でも時々他の農地の他品種の花粉がハチなどによって運ばれるなどの原因で受精が起きていることもあり、皮として剥いた部分と食用になる果肉の境界部分に褐色の胡麻粒のような種子が小数見られることがある。もちろんこれを土にまけば発芽するが、開花して果実をつけるに至るまで何年もかかる。
ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト

パイナップル科の植物の多くと同様に、パイナップルもあまり土壌には依存しておらず、熱帯のやせた酸性土壌や乾燥した環境でよく育ち、降った雨水を葉の付け根に集めて葉面から吸収する。そのため、葉面散布肥料が効果的である。

歴史
原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。

2009年03月24日

都市間高速連絡輸送を企図して線形

当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された典型的な「インターアーバン」であった阪和電鉄に比し、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して、街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から、曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間所要は60分程度が限界であった(それでも阪和間48分ノンストップと広告した程の高速運転を行って挽回しようとしていた)。

このため南海は、車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが、乗客から大好評を博した。翌1937年夏には2001系電車2両編成4本が冷房装置装備となり、冷房特急・急行の頻発を実現している。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房なし電車を見送ってまで、後発の冷房電車に乗り込む乗客が続出、非常な混雑となったという。

このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇を競ったが、輸送需要に比して過大な供給状態であり、両社にとって非常な消耗戦であったと言うべきであろう。

浜寺海岸の抗争 [編集]
両社は、大阪近郊の人気行楽地・浜寺海岸でも激しい角逐を繰り広げた。鳳から分岐する阪和線東羽衣支線は、浜寺への行楽客輸送をも狙って建設された路線である。

海水浴シーズンになると、阪和・南海両社とも難波・天王寺の各ターミナル駅から臨時列車(特に阪和のものはノンストップ運転だった)を設定し、往復割引の乗車券も販売した。そして浜寺海岸では、両社社員による熾烈な呼び込み合戦が繰り返され、ついにはお互いの社員による取っ組み合いの喧嘩沙汰にまで至ったという。

また当時、阪和電気鉄道の阪和浜寺駅(現、東羽衣駅)から浜寺海岸へ行くには、南海本線羽衣駅近くの踏切を横断する必要があったが、これに対して南海ではわざと同駅を発車・通過する電車をノロノロ運転させ、踏切を「開かずの踏切」にさせるという、いささか陰湿な手段まで繰り出したともいわれる。

この抗争の背景には、阪和と共同で「阪和浜寺海水浴場」を開設した大阪朝日新聞社と、南海と共同で「大毎浜寺海水浴場」を開設した大阪毎日新聞社との確執もあった。

なおこの抗争を経て阪和と南海が合併した1940年以降の一時期には、夏季に大阪(市内)から浜寺への定期券を購入すると、定期乗車券の経路に関わらず、南海難波・阪和天王寺以外にも高野線汐見橋駅や阪堺線から浜寺・羽衣への利用を可能としたサービスを行った時期もあった(出典:関西の鉄道19号)。

またこの抗争が影響したのか、戦後も一時期南海は、天王寺支線天王寺駅から浜寺公園駅への臨時急行を運転したことがあった。

南紀直通列車「黒潮号」 [編集]

紀勢西線の延伸 [編集]
大正末から昭和初期、和歌山県内では紀勢西線の建設が南進する過程で、和歌山県南部の南紀地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である白浜温泉が注目されることになった。

そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し、難色を示した。このため直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。

「黒潮号」の登場 [編集]
1933年11月に週末運転の準急列車(現、快速列車)「黒潮号」が、阪和天王寺 - 紀伊田辺間に登場した。阪和線内は電車で客車を牽引した。太平洋戦争以前の日本において、特急列車以外の国鉄列車に正式な列車愛称が付いたのは異例なことである[11]。なお列車名は、公募によって選ばれた。

当初は紀勢西線が紀伊田辺止まりのため、地元の明光自動車が白浜までの連絡バスを運行したが、1933年12月には紀勢西線が紀伊富田駅まで延伸、「黒潮号」も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・白浜駅)へ足を伸ばした。

阪和線内は通常モタ300形あるいはモヨ100形電車2両[12]で、紀勢西線内は8620形蒸気機関車単機で牽引した。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転、紀勢西線でも東和歌山-白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上り列車に関しては紀伊田辺に停車して所要2時間12分)という、ローカル線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われた[13]。天王寺から白浜口までの170km弱は3時間で結ばれた。

この過程では、電車による客車牽引に備え、東京地区からの電気暖房を装備する客車[14]の転用、客車への電車制御引き通し線や車掌台付き車への簡易運転台設置など、大がかりな対応措置が行われている。

対応の遅れていた南海も、1934年11月17日から阪和同様の電車牽引で、難波駅発の「黒潮号」を運転開始した。両社から直通の客車は複雑な入れ替え手順[15]を経て順に東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。

成功と廃止 [編集]
「黒潮号」のダイヤ設定は、土曜の午後に大阪を発って夕刻白浜着、日曜夕刻に白浜を発って夜に大阪へ戻るもので、週末の1泊温泉旅行に最適であった。ゆえに当時の関西人からは大好評で、「黒潮列車」の通称で広く親しまれた。

しかし、1937年7月の日中戦争勃発に際し、リゾート列車「黒潮号」と南海鉄道の冷房装置は、共に不急不要の贅沢とされた。南海電車の冷房サービスはそのあまりの消費電力の大きさと当局の指導もあって1937年シーズン限りで休止、「黒潮号」は同年12月のダイヤ改正で廃止されて、それぞれ短い歴史を閉じた。

ただし温泉準急以外にも「南紀直通列車」が「黒潮号」と相前後して毎日直通運転されるようになっており、こちらは「黒潮号」廃止後も、阪和・南海線内電車牽引で存続した。戦時中の1943年にいったん廃止されるが、戦後に両者とも再開されている(阪和は国有化されたため紀勢線と系統を一体化。南海との直通は1985年に廃止)。

2005年現在、阪和線には戦前の「黒潮号」の流れをくむ優等列車として、エル特急「くろしお」及び特急「スーパーくろしお」・「オーシャンアロー」が運行されている。

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